qruden’s blog

深堀します 🔍1970年前後のほんの束の間の限られた音楽史

オールマン・ブラザース・バンドの軌跡 04:ディッキー・ベッツとベリー・オークリー

ギターの詩人、ディッキー・ベッツ

フォレスト・リチャード・“ディッキー”・ベッツは、1943年12月12日、フロリダ州ウェストパームビーチで生まれました。
オールマン兄弟より3歳年上で、ガルフコーストのブレイデントンで育ちました。

父ハロルドは大工でバイオリンを、母サラは詩人でコルネットを演奏しました。
一家は貧しく、ディッキーは兄弟とウサギを狩って食費を助けたこともありました。

音楽はベッツ家の伝統で、祖先はノバスコシアのアカディア人。
週末には父や叔父たちと、バイオリンやマンドリンで古い民謡やブルーグラスを演奏しました。

また、母方にはチェロキーの血も流れています。
後に彼が書く「チェロキー」や「ジェシカ」のようなインストゥルメンタルには、
ロック以前の、もっと古い“アメリカの音” が息づいています。

5歳でウクレレを始め、やがてマンドリン、バンジョーへ。
12、13歳でギターに夢中になります。

エレクトリック・ギターにした理由を、彼はこう語っています。
「女の子にモテたからさ」

当時のティーンエイジャーのように、チャック・ベリーやジェリー・リー・ルイスを徹底的にコピーしました。
でも彼には、他のロック・ギタリストにはない感覚がありました。
“メロディ”を主役にする感覚です。

なぜなら、彼の耳には常にバイオリンの音が鳴っていたからです。
他のギタリストがブルースのコード進行を追う中、ディッキーは
“歌うようなメロディ” を自然に紡ぎ出せたのです。

父の仕事の関係で、彼はフロリダ中を転々とし、“よそ者”として育ちました。
その不安定さは、大人になっても抜けませんでした。

16歳で家を出て、友人と「サーカス・アクト」というバンドを結成。
その後、1930年代から続く旅回りのショー「ワールド・オブ・マース」に参加します。

そこでのパフォーマンスは、まるでロックンロールのバレエ。
膝パッドをつけてステージを滑り、肩の上に飛び乗り、最後はスプリットで決めます。
「ロックンロールのヴォードヴィルだった」と、ディッキーは後に語っています。

この1年が、彼の“ステージ術”の基礎となりました。

その後、中西部で人気のバンド「ザ・ジョーカーズ」に加入。
1,500人規模のホールを満員にするほどでした。
後にリック・デリンジャーが「ロック・アンド・ロール・フーチー・クー」で彼らの名を歌います。

1960年代半ば、故郷に戻ったディッキーは、
ラリー・“ライノ”・ラインハート(後のアイアン・バタフライ)とともに
「ブルース・メッセンジャーズ」を結成します。

そこにいたのが、若きベーシスト、ベリー・オークリー でした。

ディッキーにとって、ベリーは特別でした。
「ベースをリズム楽器ではなく、旋律楽器として捉える稀有なプレイヤーだった」

二人はすぐに意気投合し、ディッキーはベリーを手放しませんでした。

実はディッキーは、ずっと前からある音を探していました。
“ハーモナイズされた双子のギター” です。

カントリー・ラジオで聴いたウェスタン・スウィングのツイン・バイオリン。
子どものころのマンドリンとバンジョーの掛け合い。
それらの記憶が、彼の中に“ハーモニー”という種を植えていたのです。

「ディッキーはいつも、メロディにハーモニーをつけたがっていた」
と、当時のキーボーディスト、リース・ワイナンズは語っています。

ディッキーの中には、すでにオールマン・ブラザーズのサウンドの原型がありました。
ただ、それを完成させる相棒がいなかっただけです。

1968年、バンドはジャクソンビルに移り、「セカンド・カミング」と改名します。
マイナー・キーでの即興演奏が評判を呼び、2,000人近い観客を集めます。

でもベリーは、ディッキーにこう迫ります。
「カバー曲なんてやめよう。オリジナルをやろう。金にならなくてもいい」

ディッキーは「狂ってる」と思いましたが、ベリーは正しかった。

24歳のディッキーは、まだ無名のギタリストでしたが、
まもなく“サザン・ロックを定義する男”になるとは、このとき知る由もありませんでした。

後にデュアンはこう言っています。
「有名なのは俺かもしれないが、うまいのはディッキーだ」

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メロディックな心、ベリー・オークリー

レイモンド・ベリー・オークリー3世は、1948年4月4日、シカゴで生まれました。
平らで灰色の郊外、パークフォレストで育ち、南部とはまったく無縁の環境でした。

10代半ばでギタリストとして活動を始めますが、
彼の影響は、当時としては非常に珍しいものでした。
ジャック・キャサディ(ジェファーソン・エアプレイン)とフィル・レッシュ(グレイトフル・デッド) です。

彼らはベースを“リズムの土台”ではなく、“第三のリード・ヴォイス”として扱っていました。

当時のロックバンドで、ベースはステージで最も目立たない楽器でした。
役割は、ドラムのキックと同期して、曲が崩れないようにすることだけ。

でもベリーは、キャサディとレッシュのレコードを聴いて、
「ベースは歌える」 と直感します。

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希少な録音。ベリーのボーカル。

ある日、彼のバンドがトミー・ローの前座を務めたとき、
バックバンドのベーシストが徴兵されます。

ベリーは即座に手を挙げました。
彼は、ベースを一度も触ったことがありませんでした。

友人のベーシストから2週間の特訓を受け、
リッチ・イースト高校を中退して、そのままツアーに出ます。

たった2週間で、彼は“歌うベース”をマスターしたのです。

その後、南部への強い引力を感じ、フロリダへ。
サラソタでディッキー・ベッツと出会い、運命が動き始めます。

恋人のリンダ・コールドウェルが、かつてオールマン・ジョイズを知っていた縁で、
1968年、デュアンとベリーを引き合わせます。

二人は朝まで語り合いました。
「完璧なバンドとは何か」「誠実な音楽とは何か」を。

このとき、リンダは妊娠しており、娘のブリタニーが間もなく生まれる予定でした。
20歳のベリーは、父親になる覚悟を固めていました。

そんなある日、デュアンが彼に声をかけます。
「俺のバンドに来ないか?」

ベリーは断ります。

考えてみてください。
当時のデュアンは、南部で最も引っ張りだこのセッション・ギタリスト。
アトランティック・レコードの後ろ盾もあり、成功は確実でした。

でもベリーには、ディッキーを置いていくわけにはいきませんでした。

デュアンは即座に答えを出します。
「じゃあ、二人で来い」

ベリーの忠誠心が、ディッキーをバンドに引き入れたのです。
もしベリーがノーと言わなければ、
ロック史に残る“ツインギター”は生まれなかったかもしれません。

ボズ・スキャッグス & デュアン・オールマン &スワンパーズ🎸 「ローン・ミー・ア・ダイム」のレコーディング | 音楽史の裏側

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ホスト:マーク・ハンメル

ゲスト:ボズ・スキャッグス

01/07/2025

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インタビューの概要

  • 全員が帰る間際に「もう一曲」 という偶然から生まれた。

  • デュアン・オールマンはトイレで録音(伝説のトーンはそこから生まれた)。

  • 2テイク存在し、どちらも長尺のジャムになっている。

  • ホーンの即興アレンジグルーヴの自然な変化により、フェードアウトで終わらざるを得なかった。


インタビューの内容

ホスト
「『ローン・ミー・ア・ダイム』の話が大好きなんです。あれはまるでジャムセッションみたいなものだったんですね。あなたたちは1時間ほどあって、この曲を思いついた。確かジョー・ベイカーがエルヴィン(ビショップ)と一緒に歌っていたとか。」

ボズ・スキャッグス
「その通りです。そうなんです。」

ホスト
「で、彼女に電話して歌詞を聞いたと。」

ボズ
「そうです。それでスタジオに入って録音しました。」

ボズ
「セッションはもう終わっていたんです。アルバムは仕上がっていました。当時、マッスル・ショールズで働く人はみんな1週間契約でした。月曜の朝に入って、金曜の夜か土曜の朝に出ていく。それで終わり。私たちも金曜の夕方に終わっていました。多くの人、私もそうですが、最後の録音段階はホーンを最後にやるんです。水曜の夜か木曜に、基本トラックが全部できて、バックボーカルも終わったあとで、ホーンを呼んで『甘味付け』をする。私たちはそれを終えていて、ホーン隊はメンフィスから来ていました(マッスル・ショールズまでは車で約1時間)。彼らは機材を車に積み込み、みんな荷物を車に積んで、アルバムは終了。みんな帰ろうとしているところでした。」

ボズ
「それで、たしかヨハンだったと思います。僕がこの話をするときはいつもそう言うんですが、彼が言ったんです。『まだ時間があるし、みんな揃ってるんだから、もう一曲やりたい曲はない?最後にもう一つ何かある?』と。それで、『そうだな、みんな揃ってるし時間もあるし…何かある?何か思い浮かぶ?』と。」

ボズ
「そこで僕は思い出したんです。ボストンにいたとき、ケンブリッジのクラブでエルヴィン・ビショップが演奏していて、当時ジョー・ベイカーが彼のリードシンガーだったんです。彼らがフェントン・ロビンソンの曲をやっていた。当時は作者の名前は知らなかったんですが。『ローン・ミー・ア・ダイム』という曲です。ジョーが歌っていて、エルヴィンも…まさに僕のルーツそのものだった。ブルースと…。今まで聞いたことなかったけど、ジョーが歌っているのを聴いて。」

ボズ
「それでジョーに電話しました。彼女の番号を知っていたか、エルヴィンが教えてくれたのかは覚えていないけど、サンフランシスコのジョーに電話して歌詞を聞いたんです。彼女が教えてくれて、僕は『こんな感じの曲だ』と言って。マイナー・ブルースでした。あのリズムセクションとデュアン・オールマンがいて。でも普通はセクション全員で一緒に録音はしません。だってスタジオはダブルガレージくらいの広さで、クロークルームとトイレとコントロールルームがあるだけだったんです。」

ボズ
「だから分離を取るために、ホーン奏者は coke マシンのある裏の小さなクローゼットに戻らなきゃいけなかった。3人か4人、あるいは5人のホーンがそのクロークルームにぎゅうぎゅうに詰められて。私は小さな事務室かテープルームみたいなところにマイクと一緒に入れられて。デュアン・オールマンは自分のアンプを持ってトイレに座っていたんです。」

ボズ
「彼はトイレの蓋の上に座って、足は便座の上に。小さなアンプがすぐそばにあって、ヘッドホンをして、あの狭い部屋に詰め込まれていた。でもあの小さなアンプとあの部屋の残響のおかげで、素晴らしい音が出ていたんです。」

ボズ
「それで曲を一通りやって、終わりまで来ました。するとスタジオではよくあることですが、誰かがずっと演奏し続けるんです。今回はリズムセクションでした。彼らがちょっとしたロープ(ゆるいグルーヴ)に入っていって、コード進行を回しながら、ブガルーっぽい感じになって、ほとんど倍テンポくらいになって、ブガルーからシャッフルに入って、そしてフルオンのフロアシャッフルになっていった。もちろんデュアンがソロを弾いている。たぶん15分、16分、17分くらいだったでしょう。みんな『わあ』ってなって。」

ボズ
「それで彼らが言うんです。『よし、これでどういう方向にいくのか分かったな。もう一度やろう』と。それでもう一度入って、同じ手順をそのまま繰り返しました。だからロングテイクが2テイクあるんです。もう片方のテイクも聴いたことがありますが、完全には…デュアンが大きく違っていて、エネルギーも少し違いました。でもとにかくあれがライブでした。そして最後の部分になったとき、ホーンたちはただクラブでやるみたいにその場でアレンジ(ヘッド・アレンジ)を始めたんです。いわゆるクラブのリフですね。バンドが盛り上がってきて、グルーヴが変わっていくにつれて、彼らもさらに深く入っていって、演奏し続け、抜け出せなくなって、ただフェードアウトするしかなかった。延々と続いたから。」

ホスト
「今でもその曲はやったりするんですか?」

ボズ
「ええ、リクエストはたくさんもらいますよ。」



この作品を聴いているポッドキャスター特に奥様の反応が面白い。

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元歌はフェントン・ロビンソン

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オールマン・ブラザース・バンドの軌跡 03: グレッグ・オールマン

ボーカル、グレッグ・オールマン

グレッグ・オールマンは、兄デュアンの13か月後に生まれました。
性格は兄とは対照的で、内向的で繊細、傷つきやすい少年でした。

父が殺されたとき、グレッグはまだ2歳。
「父の記憶はまったくない。ただ、“いない”という感覚だけがある」と語っています。

兄がブルースからギターを学んだのに対し、グレッグが惹かれたのは “声” でした。
レイ・チャールズ、ボビー・ブランド、オティス・レディング――
彼らの歌声には、言葉では表せないほどの感情が込められていました。

1960年、母は兄弟をナッシュビル市立講堂のショーに連れて行きます。
その夜の出演者は、ジャッキー・ウィルソン、オティス・レディング、B.B.キング、パティ・ラベル。

デュアンはその場で完全に凍りつきました。
グレッグの回想によれば、「兄はコンサート中、まったく動かなかった。本当にそこにいるのか確かめるために、つつかなければならなかった」といいます。

でも二人を最も驚かせたのは、スターたちではなく、
バックバンドの演奏でした。
オーランドから来たそのバンドは、スターたちのサウンドを支える“影の力”でした。

その夜、兄弟は同じことを悟ります。
「音楽は、一人でやるものじゃない」

グレッグは新聞配達でお金を貯め、21ドル95セントでシルバートーン・ギターを買います。
(少なくとも、彼の記憶ではそうですが)

二人はそのギターを何年も奪い合いました。
実は二人とも左利きでしたが、どちらも右利きでギターを弾くことを選びました。
理由は単純――必要だったから、あるいは頑固だったから。

グレッグは長らく自分の声に自信が持てませんでした。
「荒っぽすぎる」「粗すぎる」と思っていたのです。
でも後に気づきます。
その“粗さ”こそが、彼の声の魅力だったのです。

1日晚间、ペンサコーラの「サハラ・クラブ」で長期公演が決まったとき、
グレッグは「人生の転機だった」と後に振り返ります。
毎晩複数セットをこなす中で、彼は“ステージ・プレゼンス”を身につけました。
観客をどう惹きつけるか。雰囲気をどう読むか。
曲の最初の8小節で、すべてが決まります。

その合間に、彼はヴォックス・コンチネンタル・オルガンを購入します。
後にハモンドB3に出会うまで2年かかりますが、この時点で彼はすでに感じていました。
「オルガンこそ、自分の声だ」

1967年、17歳のグレッグは、デュアンとともに路上生活を送っていました。
ペンサコーラのエバーグリーン・ホテルに泊まりながら、恋しい“架空の少女”についての曲を書こうとしていました。

でも歌詞がなかなか進みません。
“名前”が思いつかなかったのです。

バーバラ? ダイアン? ベータ?
どれもしっくりこない。

午前4時、タバコが切れ、近くのスーパーへ。
店内で、母親が娘を呼ぶ声が聞こえます。
「メリッサ! メリッサ、戻っておいで!」

グレッグは思わずその女性に感謝します。
ホテルに戻り、その夜、「メリッサ」を書き上げました。

デュアンに聴かせると、兄はこう言いました。
「ラブソングとしては悪くないけど、俺のケツは動かないな」

でも夜遅く、静かな時間になると、デュアンはよくこう頼みました。
「ギター持って来い。あの曲、もう一回聴かせてくれ」

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グレッグは後に、「メリッサ」の著作権を 250ドル で売却します。
後にオールマン・ブラザーズの代表曲となり、最も愛された曲の一つになるのに。


ロサンゼルスでは、グレッグは孤独と葛藤の日々を送っていました。
リバティ・レコードは彼にポップ・シンガーとしての活動を強要し、
タミー・ウィネットの「D-I-V-O-R-C-E」などのカバーを録音させましたが、どれもヒットしませんでした。

「人生で一番孤独だった時期だ」と、彼は後に語っています。
周囲の証言によれば、それは孤独を通り越して、深い絶望だったようです。

そんな中、彼が唯一心を救われたのは、部屋にあった ハモンドB3オルガン でした。
教会で使われるその楽器は、まるで“神の声”のように部屋を満たします。

グレッグが演奏するとき、彼は二つの言語を話していました。
ブルースとゴスペル。
少年時代に母に連れられて通った教会の記憶が、ここでひとつになったのです。

そしてある日、兄から電話が入ります。
「帰って来い。本物を見つけた」

グレッグはリバティとの契約を破棄し、飛行機に飛び乗りました。
その先には、ジャクソンビルでの新しい物語が待っていました。


1969年3月下旬、グレッグがジャクソンビルに到着すると、
バンドは彼が書いてきた22曲をチェックします。
使えるのはたった2曲。
「あと5日で、もっと書いてこい」

ある夜、グレイ・ハウスの裏部屋で、突然インスピレーションが降りてきます。
紙もペンもありません。隣の部屋では友人の子どもが寝ています。

彼はアイロン台のカバーを引き剥がし、マッチを擦って炭にし、
暗闇の中でそっと歌詞を書き始めました。

それが、後の名曲 「ウィッピング・ポスト」 です。

「いい曲ってのは、突然降ってくるものなんだ。まるでレンガで殴られたみたいに」

スタジオでは5分のタイトな曲でしたが、
2年後のフィルモア・イーストでは、22分40秒にまで膨らみ、
アルバムの片面を占める伝説のライブ・ヴァージョンとなります。

ローリング・ストーン誌やロックの殿堂が選ぶ「史上最も偉大な楽曲」にも選ばれたこの曲の、
象徴的なベースラインを生み出したのは、ベリー・オークリーでした。
わずか10分で。

グレッグが曲を持ち込み、ベリーがその“入り口”を見つけた。
これが、オールマン・ブラザーズの作り方でした。

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オールマン・ブラザース・バンドの軌跡 02:デュアン・オールマン

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前回までのあらすじ

リーダーのデュアンは幼い頃に父親を殺され、独学でブルースやジャズを研究し、兄弟と共に多くのバンドを転々としてきた。 ベトナム戦争の徴兵を逃れるため、デュアンは弟のグレッグの足を撃とうとする「足撃ちパーティー」を開き、グレッグは晴れて徴兵を回避する。 兄弟は本格的な音楽活動を開始するものの....

アワーグラス ─ 偽りの日々

しかし1967年初頭、「オールマン・ジョイズ」は解散します。 ドラマーが徴兵されたためです。 デュアンとグレッグはアラバマ州デカターを経て、セントルイスへ移動。 そこで、後のスティーヴ・マーティンのプロデューサーとなるビル・マキューエンに出会い、リバティ・レコードとの契約を結びます。 二人はロサンゼルスに移り、「アワーグラス」として再出発します。 しかしレーベルはポップ志向の音楽を押しつけ、二人が信じていないスタイルの曲を書かせました。

この経緯はジェフ・ハンナのインタビューで詳しく述べられているので参照のこと。

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彼らは1967年にロサンゼルスに移り、「アワーグラス」と改名した。リバティが求めたのはポップスだった。彼らはデュアンとグレッグに、自分たちが書いてもいない、自分たちが信じてもいないスタイルの曲を渡した。

デュアンは内部から抵抗します。 1968年4月、マッスル・ショールズのフェイム・スタジオで本物の音楽を録ろうと、リバティに資金を出させました。 出来上がったトラックはまさに「本物」でしたが、リバティはリリースを拒否します。

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グレッグは後に、アワーグラスのアルバムをこう評しました。 「ポップで、機械的で、魂がない」 デュアンは決断します。 レーベルに直接対峙し、契約を破棄して去りました。

しかしリバティは反撃に出ます。 「グレッグが契約を果たすまで、7年間、二人ともどこにも録音できない」と脅したのです。


デュアンは南部に戻り、無一文で怒りに満ちていましたが、信念はより強くなっていました。 1968年後半、彼は馬から落ちて左肘を負傷し、しばらく動けなくなります。 そんなある日――22歳の誕生日、1968年11月20日。 弟のグレッグが彼の家の前に二つのものを置いていきました。 コリシジンの風邪薬のボトルと、タジ・マハルのデビューアルバム。 そのアルバムには、当時としては驚異的なスライド・ギターを弾くジェシー・エド・デイヴィスが参加していました。 グレッグはチャイムを鳴らして立ち去りました。

2時間後、電話が鳴ります。 「おい、弟よ! 今すぐ来い!」 デュアンは薬を全部捨て、ラベルを剥がし、空のガラス管をギターの弦に当てて、 タジ・マハルのレコードに合わせてスライド・ギターを弾いていたのです。 彼はこれまで一度もスライド・ギターを触ったことがありませんでした。 でもグレッグが言うには―― 「彼はすぐに弾き始めた。まるで天性だった」 その小さなガラスのボトルは、デュアンの代名詞となるスライド・バーになりました。

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彼はオープンEチューニングにし、ソニー・ボーイ・ウィリアムソンやリトル・ウォルターといった ブルース・ハーモニカ奏者のフレーズを研究します。 なぜなら、彼らの表現がスライド・ギターに驚くほどよく合うことに気づいたからです。 彼は他のスライド奏者を真似しようとはしませんでした。 ハーモニカの“言葉”を、ギターの弦に翻訳していたのです。

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locom2註釈:デュアンのスライドによるブルースハープへのアプローチが、最も如実に現れているのが、Don't Keep Me Wonderin'です。

フィルモア・イーストでのデュアンお気に入りのハープ奏者、トム・ドゥセット(Thom "Ace" Doucette)とのマッチアップもありました。デュアンはトムを7人目のメンバーにしたかったようです。
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後にフェイム・スタジオで、ウィルソン・ピケットは彼を「スカイマン」と呼びました。 演奏中に目を閉じ、手を空へと伸ばす姿が、まるで何かを掴もうとしているように見えたからです。 そのあだ名は、濃いサイドバーンと長い髪から「ドッグ」と合体し、 「スカイドッグ」 として、彼の一生を彩ることになります。


デュアンはマッスル・ショールズのフェイム・スタジオに通い詰めます。 「駐車場にテントを張ってまで粘った」という噂もありますが、真偽は定かではありません。 ただ一つ確かなのは、彼がその部屋に入るためなら何でもする覚悟だったということです

1968年11月27日、彼はウィルソン・ピケットのセッションに参加します。 そこで、ビートルズの「ヘイ・ジュード」を録音しようと提案します。 ピケットは当初渋りました。 「黒人のソウル歌手が、ビートルズのバラードを歌う? そんなの売れるわけない」 でもデュアンは挑発します。 「やってみろよ。お前の度胸、試されてるぜ」 ピケットは負けません。 二人はその場で「ヘイ・ジュード」を録音します。 デュアンのギターソロが鳴り響くと、スタジオが静まり返りました。 その音を電話越しに聞いていたアトランティック・レコードの重鎮、ジェリー・ウェクスラーは、 即座にリバティ・レコードからデュアンの契約を買い取ります。 たった1回のソロで、2年間縛られていた契約が解けたのです。

大西洋を越えたイギリスでも、もう一人のギタリストがこのレコードを耳にします。 「このギターを弾いているのは誰だ?」 彼はすぐに問い合わせを始めました。 その物語は、次回のお楽しみです。 その後、デュアンは一気にフェイム・スタジオの看板セッション・ギタリストになります。 アレサ・フランクリン、キング・カーティス、クラレンス・カーター、パーシー・スレッジ、ボズ・スキャッグス、ハービー・マン…… 1968~69年の南部で本気のレコードを作るミュージシャンなら、誰もがデュアンを欲しがりました

locom2註釈:アレサ・フランクリン、ボズ・スキャグスらはフェイムの王、リック・ホールから別れたスワンパーズが設立したマッスルショールズスタジオで録音されたもので、デュアンはこのスタジオで活躍することになる。

セッションの合間、彼は湖畔の小屋を借り、一人で何時間もギターを弾きました。 「ハリウッドのウソみたいなゴミを頭から追い出して、自分を取り戻した気がした」


そんな最中、彼の人生に新たな局面が訪れます。 恋人のドナ・ルーズマンが妊娠したのです。 娘の名前は、『指輪物語』の登場人物にちなんで ガラドリエル と名付けられました。 彼女は1969年8月に生まれ、後に父についての決定版となる本を執筆することになります。

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ABB「フィルモア・イースト・ライヴ」をヘッドフォンで聞く人へのアドバイス。

この「In Memory Of Elizabeth Reed」で試してみます。

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📌 まず、ホワァァンというストリングス風のギターソロが聞こえてきます。この音は右ヘッドフォンから聞こえてきたらOK。左だったら右に替えます。演奏者はディッキー・ベッツです。

この人ね...

📌右ヘッドフォンから聞こえるドラムスの演奏者は、ブッチ・トラックス。

📌左ヘッドフォン。ディッキー・ベッツのソロに重ねてギターを弾くのがデュアン・オールマン。

📌左のヘッドフォンから聞こえるドラムスの演奏者は、ジェイモー。

📌左右(中央)ヘッドフォンから聞こえるベース奏者は、ベリー・オークリー。

📌左右(中央)ヘッドフォンから聞こえるオルガン(ボーカル)は、グレッグ・オールマン。

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偶然かもしれませんが、このアルバムの画像は「ヘッドフォンでの音の配置」をそのまま表しているのです。

ステージ上での配置ではありません。

オーティス・ギブス💬ジェフ・ハンナ🎸💫ジミ・ヘンドリックスに対するデュアン・オールマンの抱負

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ホスト:オーティス・ギブス

ゲスト:ジェフ・ハンナ(Nitty Gritty Dirt Band)

06/01/2026

【本文】

このインタビューは、単なる音楽業界の思い出話ではなく、「デュアン・オールマンという類まれなる天才が、いかにして自身のサウンドを追求し、周囲を魅了したか」、そしてその死後も彼の意志と音楽性がディッキー・ベッツらを通じて受け継がれていったかを、同時代を生きた証人(ジェフ・ハンナ)の生々しい視点から描き出した貴重な記録となっています。

✦ ✦ ✦

ゲスト:ジェフ・ハンナ 僕にとって、ジミー・ペイジこそが誰よりもレスポールを世に広めた張本人だと思うけど、俺にとってはデュアン・オールマンだったんだ。君はオールマン・ブラザーズのファンだよね。俺たちがロサンゼルスで一緒に家を共有してたって知ってた?

俺たちのバンドがまだジャグ・バンドだった頃の話だけど、ヒットシングルは出してたんだ。1967年のことだね。俺たちはツアーバスに乗った。文字通りトレイルウェイズのバスみたいなやつで、座席とかはあったけど、ベッドはなかったんだ。少しでも風を入れたい時は、頭上の荷物棚やラゲッジラックで寝なきゃいけなかった。ロサンゼルスから国を横断して運転していったんだよ。

たぶん帰り道だったと思うんだけど、セントルイスで休みが一晩あったんだ。それで、ビル・マキュエンがさ、彼はまだプロデューサーじゃなくてマネージャーだったんだけど、「今夜ちょっと音楽を聴きに行きたいな」って言ったんだ。でも俺は本当に具合が悪くて、インフルエンザにかかってたから、「俺はどこにも行かないよ。ここにいて、布団をかぶって、巨大なティッシュ箱を抱えてるよ」って感じだった。

それで、他の連中がみんなクラブに出かけて、そこでオールマン・ジョイズっていうバンドが演奏してたんだ。

連中は遅くまで遊んで戻ってきて、俺を起こすんだよ。「おい、すごく素晴らしいバンドを聴いてきたぜ。あの連中はとんでもない。ヤードバーズみたいだ」って。で、彼らはまだメイコンに住んでなかったけど、たぶんジャクソンビルかナッシュビル出身の小僧だったと思う。デュアンとグレッグはナッシュビルにしばらく住んでたけど、ジャクソンビルに引っ越したんだ。だからフロリダ出身で、本当に素晴らしかった。カバー曲をたくさんやってたんだけど、歌ってる奴 のブルース・アイド・ソウルがとんでもなくって。ビルは彼らのその夜の5セットのうちの1セットの後に楽屋に行って、「ロサンゼルスに来いよ。スターにしてやる」って言ったんだ。よくある口説き文句だよね?

ホスト

うん。

ゲスト:ジェフ・ハンナ そうしたら本当に、ビルは彼らをそこに連れてきてさ。俺たちと同じレコード・プロデューサーが付いたんだけど、俺たちはそのプロデューサーが気に入らなかったんだ。彼らも似たような経験をしていて、プロデューサーは彼らの方向性を変えたがったんだ。彼らはバンド名をアワー・グラスに変えて、リバティ・レコードから何枚かレコードを出した。でも、俺たちが皆知っているデュアン・オールマンのプレイがテープに録音されることはなかったんだ。グレッグの歌はなかなか良い資質もあるんだけどね。とにかく、デュアンは俺が初めて出会った奴だったんだ。俺はアコースティックなフォーク野郎 だったから、彼が俺が初めて知ったエレキギタリストだったんだよ。

ホスト

[笑]

ゲスト:ジェフ・ハンナ

真剣な話、俺はベンチャーズの曲とかを弾く友達とかはいたけど、部屋に一緒にいて彼らの演奏をじっと見たことなんてなかったんだ。でもデュアンは弾けたよ。たぶんあの頃、彼はストラトのネックを付けたテレキャスターと、ギターに直接挿すファズボックスを使っていたと思う。そう、たぶんダン・アームストロングの何かか、あるいはファズ・フェイスだったかな。とにかく、彼は部屋に座ってアンプに繋げずに弾いていても、魅了されるほど素晴らしかったんだ。それくらい上手かったんだよ。部屋でブルースを弾いてね。覚えてるよ、俺たちのバンドがハリウッド・ボウルで、ファン向けの無料あるいは1ドルくらいのチャリティー・コンサートみたいなものをやった後のことだ。いくつかのバンドが出ていて、ショーの後に、デュアンがミカド・アパートメンツっていうところにアパートを借りていて、俺たちのドラマーのジミー・ファデンもそこに住んでたから、しばらく俺たちも一緒にそのハウスを共有してたんだ。

ジェフ・ハンナとジミー・ファデン

でもその後、みんな「こういう共同生活は好きじゃない、自分の家が欲しい」って言い出してさ。それで、俺ともう一人の 奴 が彼の部屋に行ったんだ。その時ちょうど『アー・ユー・エクスペリエンスト』が出たばかりで、俺たちはみんな、シーズンスタンプ付きのまずいマリファナを深く吸い込んでた。

ホスト

[笑]

ゲスト:ジェフ・ハンナ

たぶん2日間くらいそこに泊まり込んで、ずっとハイになりながらそのレコードを聴いてたと思う。4、5回くらいアルバムを聴いた後、デュアンが小さな汚いアンプとストラトを持ってきてさ。俺は「あれ、ジミーが弾いてるんじゃないぞ」って思ってたら、デュアンがそのフレーズをそのまま弾き返したんだ。俺たちはみんな「なんてこった」って言ってたよ。彼は言ったんだ。「これが俺がやりたいことだ。俺はここを離れて、トリオを組んで、こういう音楽をやるんだ」って。彼は本当にそれをやりこなしてたんだよ。そして「俺にだってできる」って言い出すのは、かなり度胸が要ることだよね。

ホスト

[笑]

ゲスト:ジェフ・ハンナ

彼はヘンドリックスを愛してた。つまり、その崇拝ぶりは並大抵のものじゃなかったけど、その前はクリームのアルバムだったと思うし、彼はジェフ・ベックの大ファンでもあった。クリームも大好きだったね。

ホスト でも、彼はその頃まだ彼ら(ヘンドリックス、クラプトン、ベックなど)には会ってなかったのか?

ゲスト:ジェフ・ハンナ

誰にも会ってなかったよ。彼らはみんなブルース・ギタリストたちのことばかり話してた。クラブでボビー・ブランドを見たり、B.B.キングを見たり。あの時期には、LAのフォーク・クラブでアルバート・キングの生演奏を初めて見たものだ。でも、ソファに座って奴と向かい合っていると、彼は大胆で本当に素晴らしかった。自信は天狗状態だったけど、傲慢ではなかった。ただ自信にあふれていたんだ。そして次に俺たちが知った時には、彼はレコード業界に嫌気がさして、自分のギターの音が思ったように録音されないことに不満を抱き、未来が見えなくなっていた。アワー・グラスのもう一つの問題は、ウィスキー・ア・ゴーゴーで週末に数回、週に3、4夜連続でレギュラー出演してたんだけど、そのライブには全てのバンドが見に来たんだ。特にバッファロー・スプリングフィールドの連中ね。スティーヴン・スティルスとニール・ヤングはアワー・グラスを愛してたよ。俺たちは彼らの前座をしたこともあって、どこかにポスターがあるんだけど、ジェファーソン・エアプレイン、ドアーズ、ダート・バンド、そしてアワー・グラスって感じだった。

ホスト

[笑]

ゲスト:ジェフ・ハンナ

たぶんバッファロー・スプリングフィールドも何回か一緒だったと思う。とにかく彼らはたくさんのショーをこなしていて、それはデュアンにとってフラストレーションを増大させるだけだった。なぜなら、彼の友人たちは皆彼のライブを聴いていて、彼がどれだけ凄いかわかっていたのに、それがレコードには反映されていなかったからだ。レコードはどれもポップスっぽいものばかりで、もし全国や世界中の人々がそれを聴いたら、絶対に彼らの本当の凄さは伝わらないだろうに。

ホスト

なるほど。そして彼らはたぶんマッスル・ショールズに行ったんだよな。フェイム・スタジオに行ってブルースのトラックをいくつか録音して、それをリバティに持ち帰ったけど、一蹴されたんだ。B.B.キングのカバーとかやってたんだけど、本当に素晴らしかったのに、彼らは耳を貸そうとしなかった。

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「お前たちはスタジオに入って、ホーン・セクションが必要なんだ」って感じでさ。とにかく、デュアンは真夜中に突然姿を消したんだ。全てを放り出してね。そして彼らは別のベーシストを迎えた。ピート・カーという青年だったんだけど、彼は後に伝説的なギタリストでありレコード・プロデューサーになった。ポール・サイモンのバンドでプレイしてたよ。本当に素晴らしい 奴だ。ともかく、デュアンはマッスル・ショールズに現れて、セッションを始めたんだ。そして次にデュアンのことを耳にした時、ラジオからウィルソン・ピケットの『ヘイ・ジュード』のカバーで彼の演奏が流れてきたんだ。それは衝撃的だった。

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あのアウトロは本当に特別で、たぶんジェフ・ベックのようなリックを弾いてるんだけど、驚異的だった。それで彼は去り、ディッキーと出会い、ジャクソンビルか、いやメイコンに行ったのか、覚えてないな。ブッチが加わる頃にはもうメイコンにいたのか、一人また一人と集まっていった。たぶんジェイモーが最初で、デュアンとジェイモー、そして最終的にベリー・オークリーが加わった。ベリーについては、アラン・ポールが友達で彼が本をたくさん書いてるから、正確に覚えておかないと。とにかく、彼らは皆メイコンに集まり、フィル・ウォルデンが関わり、そしてあとは歴史が語っている通りだ。

さて、その頃ダート・バンドは方向転換していて、もうジャグ・バンドではなくなっていた。俺たちは南部をツアーしていて、俺たちのマネージャーのビル・マキュエンとフィル・ウォルデンの間には確執があったことがわかったんだ。ビルには金銭的な貸しがあったみたいで、彼らが分裂した時のことだね。

ホスト

[笑]

ゲスト:ジェフ・ハンナ

だから、フィル・ウォルデンはしぶしぶその借金をいくつか返済したんだ。ビルにとっては自分の銀行みたいなものだったし、誰も買わなかったレコードに対する巨額のアドバンスでもなかったからね。でもフィルはそのことで根に持っていて、ビルやビルの抱えるアーティストとは関わりたくなかったんだ。それでもなぜか、1971年の春、たぶん5月だったと思うけど、俺たちはオールマン・ブラザーズのオリジナル・ラインナップのショーのオープニングアクトを務めることになったんだ。オマリーズという場所でね。俺は本当に興奮したよ。その頃には俺は彼らの大ファンになっていて、デュアンと部屋を共にしてから3年くらい会ってなかったから。「やあ、お互いに駆け寄った」って感じだった。いろんな話をしたよ。オフ・レコードの話はまた後でするとして、本当に素晴らしい再会だったんだ。

その時俺はレスポール・カスタムを持っていたんだけど、55年か56年頃のブラックトップだった。オリジナルのレスポール・カスタムはブリッジ側にP-90、ネック側にアルニコVが載ってたんだ。それをデュアンに見せて、彼が少し弾いてみて、「これは素晴らしいギターだ。ところで、俺のあだ名はダフィーだったんだ。25歳くらいまでね。兄貴が子供の頃ジェフって発音できなくて、ダフィーって呼んでたから、それが定着したんだ」って。彼は「それは素敵なギターだ、ダフィー。でもハムバッカー・ピックアップを搭載したものを手に入れたほうがいいぞ」って言ったんだ。それが印象に残った。俺はすでにレスポールに傾倒していて、なぜ好きなのか覚えてないけど、フェンダーよりもギターらしく見えたからかな。アコースティック・ギターのような形をしていて、美的に美しかったんだ。それで、このレスポールを手に入れて、すぐに「ハムバッカー・ピックアップを付けよう」と思った。もちろん1971年当時の新しいハムバッカーはそれほど良くなかったけど、気にしなかった。ジミー・ファデンと俺でボディを掘って、それを押し込んだんだ。

デュアン・オールマンのレスポール・ギター

そして、彼らがステージに上がる前に、デュアンが言ったんだ。「俺がステージでデュアン流のシャッキング・ジャイブ(派手なパフォーマンス)をしてる時、スケートしてるみたいに動いてるだろ。俺はステージで磁石のような存在感があって、人々は注目する。でもグレッグはB3オルガンに覆いかぶって、決して頭を上げないんだ。マイクがあって、どこから声が聞こえてくるのか分からないくらいだ。でもデュアンは視覚的なカリスマだった。他の連中はただ自分の仕事をこなしてグルーヴしてるだけだけど、デュアンは磁石のようだった。だから、「俺がそんな派手なことをしてる間に、ディッキーを見ろ」って言ったんだ。俺はディッキー・ベッツが誰かも知らなかったから。彼は「彼は本当に殺りまくってるぜ。半分の時間は、人々は彼が弾いてることを俺が弾いてると思ってるよ」って。

ディッキー・ベッツ

だから注意して見たら、本当に感心したよ。彼は57年のゴールドトップのレスポールを弾いてた。デュアンはサンバーストを持っていて、ディッキーが彼に渡したSGでスライドも弾いてたと思う。その後、俺はサンバーストを探す旅に出たんだ。そしてつに見つけた。ジョン・デンバーが俺たちとセッションしてた同じクラブで、カバーバンドをやってる奴がいて、「ああ、あいつはサンバーストのレスポールを持ってる」って話しかけたんだ。それで交渉して、俺はピックアップを交換した56年のカスタムとトレードしたんだ。彼は「そのピックアップを外してオリジナルに戻してくれ、そしてキャッシュもくれ」って言ったから、「じゃあ、ツイードのフェンダー・デラックス・アンプをあげるよ」って言った。そうやってトレードしたんだ。当時、カスタムはサンバーストより100ドルくらい価値があったと思うけど、それが俺の憧れだったから。デュアンにまた会えるのを心待ちにしてたのに、3ヶ月後に彼はバイク事故で亡くなってしまった。

もう一つ言っておきたいことがある。あの会話の中で、彼は「レコードは気に入ってる」って繰り返し言ってたんだ。最初のアルバムと『アイドルワイルド・サウス』だよね?『フィルモア・イースト』の前にその2枚を録音したと思う。彼は「フィルモアのレコードはもう録音してあって、1971年の5月にちょうど出始めた頃だったと思う。最終的にゴールドディスクになったけど、彼も亡くなる前にそれがゴールドになったことを知ってたと思う。でも彼は本当に輝いてたよ。「ついに我々は的を射た。ついに俺たちのバンドが捉えられたんだ」ってね。本当に、ヘッドホンでそのレコードを聴いてごらん。何年も聴いてないから新鮮な気持ちで聴けるんだけど、信じられないほど素晴らしい。本当にライブ・アルバムとは違う、本物のライブ・アルバムなんだ。

ホスト

[笑]ドラムもライブだったもんな。ああ、彼らは本当に殺りまくってたし、ビル・グラハムとの関係も素晴らしかった。彼はすぐに彼らのファンになって、フィルモアで彼らをブッキングするチャンスがあるたびにそうしていた。ニューヨークの人々は本当に彼らを理解したんだ。今日でもビーコン・シアターでの連続公演が定番になってるだろ。先週もオールマン・ベッツ・バンドがそこで演奏してたよ。伝統を引き継いでね。

ゲスト:ジェフ・ハンナ でも、あの頃の彼らの姿を見ることができて本当に良かった。あの形態で。それは素晴らしいものだった。彼はまさに伝説で、当然そう呼ばれる理由がある。スライド・ギターも素晴らしいし、リード・ギターも、彼が長い間スライド・ギタリストとして認識されていたため、時々見過ごされがちだよね。そして最終的にデレク・トラックスが現れ、まだファミリーの一員だ。その間にはサニー・ランドレスもいたけどね。スライド・ギターを弾く素晴らしいプレイヤーはたくさんいるけど、デュアンは本当に別格だった。

オールマン・ブラザース・バンド:オリジナルメンバー

彼が亡くなった後、俺たちは『サークル』というレコードを録音した。ヴァッサ・クレメントが本当に良い友達になっていて、たぶん日本ツアーに行った時だったと思うけど、彼が「ディッキー・ベッツとレコードを録音するんだ」って言ってたのを思い出した。俺は「ディッキー・ベッツ?」って言ったんだ。「ああ、あいつだ」って。俺は「神様、俺は大ファンなんだ」って言ったけど、本当に彼を知っていたわけじゃなかった。オールマン・ブラザーズと共演した夜にデュアンが彼を褒め称えてた時にも、まだ会ってなかったんだ。それで「少し時間があるんだけど、一緒について行ってもいい?」って聞いたら、「もちろん」って言うから、メイコンに行ったんだ。一緒に夕食に行って、友達になったんだ。彼は「俺は『サークル』のレコードが大好きだ。このトラックでアコースティックを弾いてくれないか?」って言ったんだ。それがリック・ディッキー・ベッツの『ハイウェイ・コール』アルバムで、収録曲の「ハンドピックト」というインストゥルメンタルだった。だから、たくさん演奏したんだ。

ホスト

[笑]

ゲスト:ジェフ・ハンナ

ディッキーが持っていた大きなD-28で数日間かき鳴らさなきゃいけなかったけど、その後本当に親友になったんだ。彼は超クールだった。もし俺がエミュレートして、リフやソロを覚えたエレキギタリストがいるとすれば、それはディッキーだ。彼にお気に入りのエレキギタリストは誰か聞いたことがあって、それ以上に深いものがあるとは思うけど、彼が挙げた2人はウェイロン・ジェニングスと、テレキャスター使いのジェリー・ガルシアだった。ウェイロンは本当に素晴らしいギタリストでもあるんだ。

ホスト うん。

ゲスト:ジェフ・ハンナ そして俺はたくさんのショーを見ることができた。RFKスタジアムでの連続公演にも行ったよ。ワシントンD.C.で休みがあって、RFKスタジアムでグレイトフル・デッドとオールマン・ブラザーズが共演してたんだ。 Wow. サイドステージでそれを見たんだけど、マラソンのようだったけど本当に素晴らしかった。

ホスト それはすごい。ああ、本当に。

ゲスト:ジェフ・ハンナ ディッキーはクールな奴だったよ。俺たちのドラマーのジミーは70年代にサラソータに引っ越したんだ。今またそこに住んでるけど、人生の異なる2つの期間に住んでる。俺はそこに遊びに行ってジミーと過ごし、ディッキーとジミー、そして俺で深海釣りに行ったんだ。ハンター・S・トンプソンみたいな週末を過ごしたよ。

ホスト

[笑]

ゲスト:ジェフ・ハンナ

釣りも少しやったけど、本当に楽しかった。彼と知り合えて本当に良かった。彼はクールな奴だよ。

オールマン・ブラザース・バンドの軌跡 01 :デュアン・オールマン

オールマン・ブラザース・バンド。ロックが花開いた60年代末から70年代を彩った自分にとっては記念碑的バンドです。
日本ではほとんど無名なのですが、米国ではサザンロックの大御所的バンドでした。
時は移り今の若者世代には、おじいちゃんが聴いてたクラッシクロックくらいのイメージだったはず、ところが、この5年くらい前からポッドキャストで多くの若者が、彼らの曲を取り上げるようになり、感嘆の声を発しているのです。
オールマン・ブラザース・バンドの特長は、ライブ演奏にあります。きっと直近の音楽に欠けた何かがあるのでしょう。
オールドファンのわたしには、彼らの演奏は普通のことで、驚きのようなものはありませんが。

そこでライブ好きを自称するポッドキャストの女性を取り上げておきます。こんな感じ。

さあ、ここからが本題。
オールマン・ブラザース・バンドの事蹟については、かなり物知りだと思っていたわたしでもびっくりするくらい、ディープな内容の動画を見つけました。

これです。
漏れなく、余すところなく文字起こしします。
ワクワクしますね…あんたはしないって、クールだねキミは...。

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オールマン・ブラザーズ・バンド エピソード1:ブラザーフッド以前


📍 はじめに

やあ、クリスだ。ようこそ、B-Side Chroniclesへ。
このチャンネルでは、物語が許す限り深く潜り、隠された物語、語られなかった悲劇、忘れられた瞬間、そして偉大な音楽の背後にあるリアルな人間ドラマを掘り下げていく。あらゆるジャンル、あらゆる時代を扱う。決して表面だけをなぞることはない。
このシリーズは、ずっと作りたかったものだ。オールマン・ブラザーズ・バンド、その始まりから終わりまで。誕生から最後の一音まで。
そして今回は、バンドが存在する前から始める。
6人のミュージシャン、6つの全く別々の人生、交わる理由がどこにもなかった6つの道。だが、それらは交わった。
これがオールマン・ブラザーズ・バンド・シリーズのエピソード1、「ブラザーフッド以前」。
1969年春、フロリダ州ジャクソンビルで6人のミュージシャンが出会った。彼らは全員が同じ部屋にいたことがなかった。彼らの間には、ほとんど金がなく、レコード契約もなく、全米での知名度もなかった。そのうちの1人は、まだカリフォルニアのレーベルと契約中で、そのレーベルは2年間もの間、彼を本来の姿とは違うものに仕立て上げようとしていた。2人はまもなく父親になる。1人は、成功するかどうかもわからないバンドを始めるために、セッション・ギタリストとしての小さな財産を捨てたばかりだった。
彼らが持っていたのは、心の痛みと飢え、そして何度も「ノー」と言われ続けて、その言葉がすっかり効力を失ってしまった人間特有の頑固さだった。
1人はオーティス・レディングのドラマーとしてソウル・サーキットを回り、将来のバンドメイトのほとんどが彼の存在を知るずっと前に、アポロ、ハワード、リーガル・シアターで演奏していた。
1人はイリノイ州の高校を中退し、ポップ・シンガーのツアーバンドに加わった。その時、彼は自ら志願したにもかかわらず、ベースを一度も弾いたことがなかった。
1人はフロリダ中を転々としながら育ち、いつも転校生だった。彼は自らの言葉で、音楽を続けるために、実際にサーカスに加わったことがあると語っている。
1人はジャクソンビル出身の少年で、ロックのステージに立つ前に、ジャクソンビル交響楽団でクラシックのティンパニを演奏していた。
そして2人の兄弟、1949年のクリスマスの翌日に殺された軍人の息子たちは、頭の中で鳴っている音楽を演奏しようと10年近くを費やし、それは市場が望むものではないと言われ続けてきた。
彼らはその言葉を全て無視した。
出会ってからわずか数週間で、この6人は初めて一緒に演奏することになる。彼らが最初に演奏した曲は、マディ・ウォーターズ「Trouble No More」だった。マディ・ウォーターズを選ぶことは、宣言だった。「我々はここから来た。我々はこれの末裔だ。これから続くすべては、この男に根ざしている。」そのうちの3人は、その部屋で起こったことを宗教的体験と後に語っている。
だが、それはまた後で話そう。このエピソードは、その6人の特定の人間が、それぞれどのようにしてその部屋にたどり着いたのか、その物語だ。ブラザーフッド以前に。


リーダー、デュアン・オールマン。


ハワード・デュアン・オールマンは1946年11月20日、テネシー州ナッシュビルで生まれた。父ウィリスは第二次世界大戦に従軍した。複数の記録によれば、彼はノルマンディー上陸作戦の部隊にいたとされている。彼は戦争を生き延びて帰還し、ジェラルディン・アリス・ロビンスと結婚し、2人の幼い息子をもうけた。彼は、すべての証言によれば、善良でいつも子供たちのそばにいる父親だった。

1949年12月26日、彼と友人は、酔った知人をバーから家まで車で送った。その知人は、耕されたばかりの畑で2人を襲い、金を奪い、ウィリスを射殺した。デュアンは3歳、グレッグは2歳だった。ジェラルディンは26歳で、2人の幼子と、生涯をかけて抱え続けることになる悲しみを残され、ひとりぼっちになった。彼女は2人の少年をウィリスの両親のもとに預けた。そこで彼らは初めて音楽に触れた。彼らの祖父とその兄弟たちはギター、バンジョー、マンドリンを演奏した。それらの楽器の音が、兄弟が持つ最初の音楽の記憶だ。彼女はやがて大学の学位を取得し、2人の少年をテネシー州レバノンのキャッスル・ハイツ陸軍士官学校に入学させた。父親のいない少年たちのための、規則正しい環境だった。デュアンはその全てを嫌った。
彼はそこでピアノの先生にこう言ってからレッスンをやめた、「これをやらない理由は、これから先、一生必要ないからだ。」彼は、最も深い意味において、正しかった。1959年、ジェラルディンは家族を連れて南のフロリダ州デイトナビーチに移った。そしてデイトナビーチで、兄弟は自分たちを待っていたものを見つけた。デュアン自身による、彼が初めてのギターを手に入れた時の話。「ある年、グレッグがクリスマスにギターをもらって、俺はハーレーの165ccのバイクをもらった。俺はそれを壊して、彼は弾き方を覚えた。彼が俺に教えて、俺は壊れたバイクの部品と交換で別のギターを手に入れた。」グレッグの話は少し異なる。彼はナッシュビルの隣人からレッスンを受け、後にデイトナビーチで自分のギターを買ったと言う。兄弟は初期の頃の記憶に微妙な違いがある。だが、彼らは常に重要なことでは一致していた。二人とも結局ギターを手にした。そしてその時から、二人とも真剣に他の道を考えることはなかった。

デュアンは高校を中退し、完全に耳コピで独学した。B.B.キング、ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、エルモア・ジェームズ、ブラインド・ウィリー・マクテル。彼は曲を学んでいたわけではない。系譜をたどっていた。フロリダのポーチで、レコードの1枚1枚を吸収しながら、アメリカン・ブルースの完全な血統を。

彼がそれらのレコードに聴いたのは、単なるテクニックではなかった。それは感情の真実だった。ブルースは、普通の言葉では届かないことを語っていた。音と音の間に。弦のベンドに。声が割れる直前のひっかかりに。デュアンは17歳で、ほとんどのミュージシャンが決して理解しない方法で、その全てを理解した。彼の母親は、指から血が出るまで弾いたと言う。そして彼はそれを包んで、弾き続けた。しかし、彼が何よりも何度も戻ったレコードは、ブルースではなかった。ジョン・コルトレーンの『My Favorite Things』だった。

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彼はそれを絶え間なく聴いた。道中で、ホテルの部屋で、何もかもが無意味に思える早朝に。ブルースはデュアンに何を感じるべきかを教えた。コルトレーンは、その感情をどれだけ長く保てるかを教えた。コルトレーンが、聴き手を決して失うことなく、たった一つのアイデアを12分、15分、20分と引き伸ばす方法。それがデュアンが踏み入れた扉だった。何年後か、オールマン・ブラザーズがフィルモア・イーストで23分の曲を演奏した時、それはコルトレーンだった。モーダル・ジャズが、チェリー・サンバーストのレスポールに翻訳された。1968年のほとんどのロック・ギタリストは、ブルース・レコードを研究し、同じ5つのリックを学んでいた。デュアン・オールマンはサックス奏者を研究していた。それが、オールマン・ブラザーズ・バンドがアメリカ音楽の中で他に類を見ないサウンドになった理由の一つだ。1961年までに、彼らはデイトナビーチ周辺のティーン・ダンスで演奏していた。デュアンはかつて、そこでの社会情勢を率直にこう表現した。「白人はサーフィン、黒人は音楽をやる。」彼とグレッグは音楽を選んだ。1965年にオールマン・ジョイズを結成するまでに、兄弟はすでに5つの異なるバンドを渡り歩いていた。Y-ティーンズ、ミスフィッツ、シャフラーズ、ハウス・ロッカーズ、エスコーツ。そのどれもがデイトナビーチのバンドで、どれもが次のステップへの足掛かりだった。

彼らは南部のサーキットを懸命に回った。アラバマ州モービルのストーク・クラブのような過酷な会場で、1晩6セット。1セット45分、週6晩。そんな1週間の後、兄弟はそれぞれ111ドルを手にした。グレッグは歯学部に行こうと真剣に考えた。デュアンはそれを聞こうとしなかった。
1965年、グレッグの徴兵は現実的な問題だった。デュアンは父のいない家庭の長男として免除された。グレッグはそうではなかった。デュアンには計画があった。グレッグが18歳になったのは1965年12月。ベトナム戦争の徴兵は加速しており、金髪でブルース・ヴォイス、未完成の曲を山積みにしたグレッグ・オールマンは、まさに徴兵対象になろうとしていた。
デュアンは彼にきっぱりと言った。「こうしよう。お前の足に銃弾を撃ち込むんだ。」グレッグは冗談だと思ったが、そうではなかった。グレッグの軍の身体検査の前夜、デュアンは「足撃ちパーティー」を開いた。友人、女の子、ウイスキー、スピード。グレッグは左のモカシンに的を描いた。いざその時が来ると、グレッグは躊躇した。デュアンは彼を見て言った。「こんな素敵な女性たちを足撃ちを見に呼んだんだぞ。がっかりさせるのか。
グレッグはさらにウィスキーをあおり、救急車を呼びました。
サイレンが聞こえると同時に、彼は引き金を引きました。
「スピードと酒で血圧が上がっていたせいか、かなり出血しました」と、グレッグは後に振り返っています。
病院への搬送中、二人は重大なミスに気づきます。
モカシンに描いた”的”を、履いたままにしてしまったのです。
デュアンは急いで手術室に忍び込み、ぐちゃぐちゃになった靴を回収しなければなりませんでした。
翌日、グレッグは、松葉杖と大きな包帯で徴兵検査場へ。
即座に「不合格」と判定され、音楽の道を続けることができました。